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Mitsuru Sugiura
JULY 2009
「記憶」の再生―身体感覚を取り戻す
「現在の建物は構造体を直接確認できないものがほとんどです。柱を確認できない建物は、どのように重力を支えているのでしょうか。それがわかるのは建築に携わったごく一握りの人だけです。さらに、デザインとしての張り子の柱や梁が設けられたときには、ますます現実味はなく、感覚的にしかとらえられないことでしょう。
このような建物に住む人びとが、部屋の中に花を飾り、絵を掛け、思い出の写真や置物を飾るのは、現実感覚を保つのに大切な、過去と今を繋ぐ「記憶」をたぐる無意識な行為なのかもしれません。」
(充総合計画Hpより抜粋)
建築設計のエッセンスとは
建築はアートと異なり、一個人の思惑では成立できません。
クライアントをはじめ、法律や行政、建物の用途のみならず、経済性、歴史や風習、風土など、社会との関わりのなかで、具体的な構造をもって、多くの施工者の協力により初めて実現します。そして長期にわたり不特定の人々が使用し維持していけるものでなくてはなりません。
クライアントから、そしてその時に与えられた条件や環境などからも特有なエッセンスを無意識に抽出しているとも言えるかもしれません。
もっとも印象深い作品をひとつ、教えてください
各々が、自身の成長の過程のなかでの思い入れ深い物件であり、その時に関わったクライアントや現場の関係者、近隣の方々等の、多くの方との関わりやドラマがあり、一つを挙げることは大変難しいものです。
最も苦労した作品は
あえて挙げるのであれば「借景の家」でしょうか。
ゼネコンを離れて独立した後に手がけた初の個人邸です。
鉄骨造でしたが、当時の鉄鋼価格が急騰する背景のなか何とか予算内に近づけるため、元請けの工務店を介さずに自身が工事管理を行う「分離発注方式」による建築を試みました。
敷地はT字型の変形形状でした。工事車両が入ることができない狭幅の通路先に建築するために、工事車両スペースとして隣地である区立公園を借りる申請をすることで準備を整えました。
しかし、着工前日に急遽借りることができなくなってしまい大変苦労した物件です。
搬出入通路幅を確保するために、お隣様が新築に伴い築造されたばかりの境界ブロック塀を「復旧」を約束のうえ、完成から数日しか経っていないにもかかわらず解体廃棄に応じていただきました。
このことは生涯忘れられません。
今思えば、大変リスキーな現場でしたが、反面大変内容の濃い経験にもなりました。
この物件の鉄の骨組みは、クレーンを据え付けるスペース(隣地公園)が無くなってしまったために、手運びで組めるように構造も工夫しています。
この細長いアプローチ越しに公園緑地へと繋がっている敷地環境を、人工物である建築で塞いでしまうことに対する責任を潜在的に感じ、それがこの建物のエッセンスとなって借景というコンセプトに繋がったように思えます。
独立初期の思い入れの深い建築です。
「本の栖」の主は、どのような方ですか
教育関係機関にお勤めの方です。
部屋から廊下へと本の山が流出し、果ては玄関にまで及んでしまった旧家屋の様子や、お仕事上で書籍が多いというのではなく、あくまで趣味であったことに、主の趣味の領域を超えた本への愛情を感じ、思いを馳せて設計しました。
本に囲まれた空間は主の脳のなかのようでもあり化身のようにも思えます。
設計時、オーナーに思いを馳せますか
思いを馳せないことはありません。
その過程のなかで、与えられた条件だけでなく、より問題を解決する提案やアイデアが生まれるものだと思います。
多くの要望項目やクライアント間の異なる要望の全てを個別に満たしていては費用や床面積は、いくらあっても足りません。
それらの矛盾を一つのより解決した結果として現実というカタチへ昇華するためへの最も大切なことだと思います。
例え賃貸アパートや建て売り住宅の設計であっても住まう方のなんらかをイメージし思いを馳せていることと思います。
将来、どのような建築を手がけてみたいですか
独立したての頃よりも経験という引き出しを備えたこの時期に、幼稚園をもう一度手がけてみたいです。
その他、ゼネコン時代に関わっていたビルや共同住宅や公共建築物などの比較的大きな建築物の設計を、施工会社という組織から離れた今の環境で純粋に関わっていきたいです。
建築家としてのフィロソフィ―とは何でしょう
機械空調で強制的にコントロールされた室内環境や、科学技術によりオートメーション化された至便性の高い都市は、我々の不便な肉体という現実を忘れさせてくれます。
「脳の時代(脱身体の時代)」へ益々向かっている現実を感じます。
また、今までという過去やこれからの未来という時間の経過を棄て「楽園」という状態で時間を止めてしまった場所がテーマパークですが、戦争により今までという過去が消され、廃墟から経済発展優先でこれからという未来を考える間もなく瞬く間に出来上がり、スクラップ&ビルドを繰り返す現在の都市はとても類似して写ります。
つまり、「時間」の喪失です。昭和という時代が夢物語のように瞬く間に失われ、歴史として残りにくいことはこのことをよく表していると考えます。
これらに共通して言えることはリアリティの喪失です。
その警告とも捉えられる、過去では考えられなかった事件が多発する日常にある現代ですが、「身体感覚を取り戻す」ということは、私の建築に対する一つの重要なエッセンスです。
太古からの人類の永遠のテーマである「永遠の命」とか「ユートピア思想」は幻想ではないでしょうか。
双方に共通していることは時間というリアリティの喪失であり、つまりは「死」を意味するからです。